告 知

平成3年、2月7日、私の癌摘出手術。
勿論、告知なんて受けていませんでした。
あくまでも「癌ではないけれど・・・もう少し取っておいた方がいい」と言われての手術でした。

私のその頃の状況は・・・
子供三人を出産後、「癌かもしれないから」と、頭を切り(皮膚・前癌)
超音波・マンモグラフィの検査から「90%癌だから」と、右乳房を12cm切り(乳腺線維腺腫とカルク状の腫瘍)
無菌性髄膜炎をやり
その後、神経内科に罹り(安定剤・睡眠誘導剤服用)
・・・・・
子供の授業参観に行っても、後ろで一時間、立っていることができない。
洗濯物を干そうと庭に出ても、地面が陽炎のように揺れている。。。
そして・・・とうとう
悪性黒色腫。。。メラノーマ


それまでにも、胃カメラは何回飲んだだろう。。。
血を吐いて、日赤に行くと、私は即、胃カメラ。
胃カメラの中に、センシを通して、細胞を取ったこともあるし。
血を吐いて、胃液を吐いて、胆汁まで吐いていた。

そう言えば、長男を産んだ後、通っていた婦人科で
「あなたは癌になり易い体質だ」なんて言われて、婦人科の癌検診も半年間隔で受けるように言われていたっけ。。。


『既往症』の欄に書ききれない。


病気ばかりの私が、また、癌かもしれない。。。
主人の親から「癌だとしても、闘うことは辞めてくれ」と言われた。
「抗がん剤って、吐いたり、大変なのよ。周り皆に迷惑かけるのよ。
息子(主人のこと)は、今、お仕事を一生懸命しなければいけない時なの。

もう、これ以上、周りの足を引っ張らないで」と、生検結果が判る迄、毎日、電話がかかってきていた。
主人の気持ちを確認したら、
「親と、同じだ」と。

1月17日の生検結果(2週間後)は聞きに行かなかった。
病院(看護婦さん)から電話がかかってきた。
「先生が、何時迄でも待っているからとおっしゃってますから」と。


診察室のカーテンを開けて「出たの??」と、席に着く前に、口にしていた。
本当に疲れていた。
主治医は・・・「いや。。。癌じゃないけれど、もう少し取っておいた方がいい」と。
煩かった。
癌じゃないなら、放っておいて欲しいと思った。
「このままで、癌になる可能性は何%?」と。


主治医の返事はない。
イラついた。
「そんな何%か判らないコトの為に手術はしたくない!!」
「主人の親から『もう手術はしないでくれ』と言われているの。
何%か判らないコトの為に、100%家庭が壊れる手術はできない!!」と。


主治医が、凄い表情で立ち上がった。明らかに怒っていた。
「同居しているわけじゃないのだから、言わなければイイだけだ!」と。

判るわけない。私の状況なんか、誰も判るわけない。。。そんなコトばかり考えていた。
「じゃぁ離婚してきますから、それから、手術して下さい」と私は答えていた。


主治医が「時間が無い!前の手術から、4週間以内じゃないと意味が無い!」と
少し興奮気味。

2月5日に入院して、7日に手術と、もう決まっていた。
前回の手術の時、局所麻酔でショック状態になったから、
手術前にいろいろと慎重に対応してくれる予定だとか。。。

上の空だった。


家に帰ると、当時、小学一年生の長男が、心配そうに・・・
「お母さん、どうだった?」と聞いてきてくれた。
私「癌じゃないらしいけど・・・もう少し取った方が、いいって言われた。
でも、手術受けられないよね。また、おばあちゃんに、怒られるよね」と。。。

情けない話だけれど・・・
その頃の私は、なんでもかんでも、長男に相談していた。



長男が「病気と闘って欲しい!」とまっすぐに言ってくれた。
私はそれでも「また手術受けたら、この家追い出されるよ」と言っていたのに・・・
長男は「病気と闘って欲しい! 生きていたら会える!!!」と言い切ってくれた。
7歳の長男が。


やっと手術の決心がついた。

今の正常な精神なら、異常な会話だということが判るのに・・・
その頃は、何が異常で、何が正常か。。。判断も付かなくなっていた。


主人に内緒で、手術の準備を進めた。
近所の、長男のお友達のお母さんが、長男を預かってくれると言ってくれた。
家に、私の母が来て、子供を見てくれることになっていたけれど、
その女性は「おばあちゃんが、一度に3人の子供を見るなんて大変よ。
学校に行ってるお兄ちゃんが居ない方が、楽だよ〜♪」って。


この女性・・・私の憧れの人。
とても美人で、元スチュワーデス。子供を育てながら、今も英会話の教室を開いている。
時間の使い方が、とても巧い。
人とのコミュニケーションも、とても巧い。
そして『自分』を持っている人。
気休めや慰めではなく、本音で、いつも私に『旬』の言葉を投げかけてくれていた。
いつも、いつも、明るい笑顔で、私の家のドアをノックしてくれていた。


この人のお陰で、私は、どっぷり病人軍団に入っていかずに済んだ。
病人と居ると、確かに、救われる気がする。
健康な人と居ると、壁を感じる。。。
それは否定できない・・・けれど・・・



入院の前夜、主人に話した。
友達家族が、一緒に居てくれた。
何か言おうとする主人の言葉を長男が遮ってくれた。

「ああ、私は、自分のコトをなにひとつ、自分でできていないジャン。。。」



その後の記憶がない。
どうやって入院したのか。。。
どうやって手術室に入っていったのか。。。

手術室に、うつ伏せに寝ている。
主治医が、私の腰に、ペンで、図面(?)を書いている。

不思議なからだ。
痛みがなくなっているだけで、他の感覚は鮮明に残っている。
メスがツーッと背中を走る。
引っ張ったり、切ったりしている感覚は判る。ただ痛くないだけ。
お尻の肉の中から、引っ張り出している。
針を刺す。糸がスーッと通っていく。
「一針、二針、三針、、、十五針、十六針、十七針、、、
二十一針、二十二針、二十三針、、、」
・・・気が遠くなりそうになり、数えるのを辞めた。

最後、背中に、ズブッと串を刺される。二本。
丁度、海老の塩焼きをする時に、背中に串を刺す。。。海老になった気分。吐き気がした。
(血抜きのドレンを刺したそう)

BGMは、ずっとディズニーのメロディ♪


「終わった!」と思ったら・・・
引っ繰り返されて・・・口の右下のホクロも取るそうで・・・
「聞いてないよぉぉ〜」声にはできなかったけど・・・好きなホクロだったのに。
目を閉じて、また数えていた。表面は四針で終わった。


2005・・今は跡形もありませんvv


次も、また、記憶が飛んでいる。
大部屋の廊下側のベッドに寝ていた。
「10日間、寝返りも禁止」だって。移植した肉が、くっつく迄らしい。
いろんな管に繋がれていた。
周りにイッパイぶら下がっている。。。シャンデリア。。。

看護婦さんが痛み止めの注射を持ってきてくれた。
「要らない」

怒れていた。
癌でもないのに、こんなに切ったの!!!?

翌日だったか。。。翌々日だったか。。。
点滴のボトルに注射を刺していく。
血管が痛い。背骨が凍るように冷たくなる。
次の日も、ボトルに注射を刺す。
吐き気が始まる。
寝返りもできないから・・・吐くのは辞めた。

消灯15分前、主人がベッドの横に立っている。
私を見下ろして・・・
「やっぱりあの癌だって。生きていても10年間、こんな生活だって」と。
そのまま、出て行った。


「そっか。癌だったのか。。。」
翌日も、注射を刺された。
翌々日も・・・
血管が痛い。「誰かぁ〜 腕を切り落として〜〜〜!!」
呼吸をするのも痛くなるくらい・・・血管が痛い。
背骨が凍っていく。。。
やっと判った「この注射、抗がん剤なんだ。。」


主人からの告知の翌朝、主治医が朝7時前に飛んできてくれた。
主治医の家から病院までは一時間近くかかるはず。
「こんなに情のある表情を見たことがない」ってくらいの表情だった。
何も言葉はなかった。表情だけで充分だった。


後から、主任看護婦さんが教えてくれたこと・・・
あの告知の夜、主任看護婦さんが当直で・・・
消灯の準備をしている時に、主人が看護婦詰所に顔を出し、
「今、本人(私)に、本当のコトを言いましたから、後、よろしく」と挨拶をして帰っていったそう。



凄く辛かったけど・・・
心の整理がつくまでには、やっぱり時間がかかったけれど・・・
今は、本当に、主人に感謝している。

「告知を、ありがとう」

「生きるチャンスをありがとう」



 


この頃のことは、いくら整理しようと思っても支離滅裂です。
upしようか。。。何度も考えましたが、
当時、告知をしてもらえるなんて、なかった時代だったので、
結果よければ、全て良し!として読み流して下さい。